黄河決壊事件 – Wikipedia
黄河決壊事件(こうがけっかいじけん)は日中戦争初期の1938年6月に、中国国民党軍が日本軍の進撃を止める目的で起こした黄河の氾濫である。事件当時は黄河決潰事件と表記された。中国では花园口决堤事件(花園口決堤事件)と呼ばれる。犠牲者は数十万人に達し、農作物に与えた被害も住民を苦しめた。
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堤防の破壊準備
国民党軍は本拠を三劉寨付近に置いて5月頃から住民の交通を遮断し、黄河本流が河岸に激突する場所に内径10メートル、深さ15メートルの穴を掘り、これを互いに横坑で連結して爆破する準備を行ったが事件後にも未完成で爆破されなかった穴が数個残っていた。開封北方の堤防上では溝を掘って増水期に自然に決壊するように準備されていた。堤防破壊の準備作業は5月下旬から確認されており国民党軍は1個師団の兵に加えて付近の農民を強制して作業を行っていた。
洪水
商震将軍は蒋介石から日本軍前衛部隊の背後を突く形での堤防爆破を命じられたが、国民党軍の撤退が終わるまで爆破を延期していた。この間、蒋介石は爆破が行われたかについて何度も問い合わせを行っている。
6月7日には中牟付近で爆破が行われたが、この作業は失敗し、場所を花園口(zh)に変更して作業が進められ、6月9日午前9時に作業が終了し黄河の水は堤防の外に流出した。氾濫は河南省・安徽省・江蘇省にまたがる54,000平方kmの領域に及んだ。
水没範囲は11都市と4000村に及び、3省の農地が農作物ごと破壊され、水死者は100万人、被害者は600万人と言われるが被害の程度については諸説ある。
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E6%B2%B3%E6%B1%BA%E5%A3%8A%E4%BA%8B%E4%BB%B6
黄河が決壊したのは1938年6月7日だった。
河南省の花園堤防が切れて満々たる水が黄河から溢れだし、河南省ばかりか安徽省から江蘇省の平原まで冠水した。
水死者だけで60万人とも百万人とも言われる。
これは蒋介石が命じて堤防を爆破したからで、被災は以後水没地域に干ばつ、飢餓などをもたらし、 1943年には大飢饉に繋がる。
ところが、蒋介石の副官だった何応鈞は『八年抗戦之経過』(1938年)の なかで「日本軍が飛行機で爆撃した」と書いた。
『中華年鏡』(1948年)のなかにも「日本軍の砲撃で破壊された」と嘘が書かれたが真実はちがう。 日本軍に追われた蒋介石は水攻めの奇策を思いついた。
黄河花園堤防爆破が国民党の自作自演であったことは、1976年になってからやっと関係者が暴露した。
しかも爆破直後に「これを日本軍の仕業として宣伝する」ことまで事前に決められていた。
6月7日爆破。6月11日からラジオなどを使って『日本軍の暴挙』をわめき続けた。
これに疑問をもった外国人記者がいた。
パリの「共和報」という新聞が自作自演説を伝え、真実が明るみに出る。
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